何百万という目に見えぬ霊的生物がこの地上を歩きまわっている。
 われわれが起きているときも、眠っているときも。
                       ミルトン、『失楽園』





 三上亮の時計が、パティ・ペイジのI went to your weddingを奏でた。
 静寂と死臭に満ちていた夜の墓場の空気が、それで一瞬、たいそう奇妙なものになった。渋沢克郎は舌打ちしたが、サーベルにかけた体重を緩めまではしなかった。ミルクのように白い月と、ざわめく絲杉(いとすぎ)の並木が、研ぎ澄まされた刃の表にゆらめきながら映りこんでいる。それは加えられた重みでじりじりと下方に下がってゆき、やがて男の喉笛に食い込むころには、すっかり月の白さを映さなくなった。

 墓地は暗く、わずかに月光が射して、確かに殺人にはもってこいだった。墓地とはいっても、そのために植林したものではない。教会脇の絲杉林を切り拓いて墓地にしたのである。絲杉の葉は黒く、まばらなわりに月の光を通さない。これ以上明るければ人目にもついたろうし、かといって暗ければ、どこを殴りつけていいかもわからなかっただろう。もっとも彼らは、わざわざ人殺しをするために、墓場まで来たわけではない。

 あれだけ注意していたのに、やっぱりモーニングの胸に、派手な血の染みをこしらえてしまった。渋沢は黙って、頬にも撥ねた返り血を、指で拭った。いつの間にかパティ・ペイジは鳴りやみ、姿の見えなかった三上がぼやけた墨絵のように、墓場の径(みち)に現れていた。駱駝色のニッカーボッカーと縞のチョッキは、まるで鹿射ちにでもきた人の格好のようだ。
 お前が相手をしていた小僧はどうしたんだ、と言おうとして、渋沢は止めた。《瞬速》を発動させたトレアドールの犠牲者の末路など、考えたくもない。三上の手の、競技フェンシング用のレイピアには、よくわからない暗色の液体が滴っていた。

「何だったんだろうな、こいつらは」

 三上はのんびり歩いてきて、いきなり渋沢の足許の死骸を蹴飛ばした。そいつはごろりと仰向けになって、ぽかりと開いた口と、喉笛にできたもう一つの口をさらした。それを見たくないからわざわざ俯せにしておいた、渋沢の心境を慮ってはくれないものか。
「俺らと同じ、墓荒らしってわけでもなさそうだ」
「三上、俺たちは別に盗掘に来たわけじゃないだろ。公子のご命令で……」

 論点が違うとは知りつつも、ついつい渋沢は眉をひそめた。生前の性格とは直らないものだ。それともヴェントルーの性か。百年来、渋沢とつきあいのある三上も、そのあたりはよくわかっていて、いちいちやりかえしたりはしなかった。

「はいはいそうでした、桐原公子のご命令だ。……こんな事若い連中にやらせときゃいいのによ」
「その若い連中が、今の奴らと遭遇していたらと考えるとぞっとしないか?こいつらはきっとグールだな。腕はたつようだったが」

 それも戦闘用の、血をたっぷり与えられたグールだ。ジハドでもあるまいし、何故こんなところにいるのだ。そしてどうして自分たちが襲われなくてはならない。

「どうでもいいけどよ、やるこたぁさっさとやっちまおうぜ。儀式魔術用の内臓ってのは、新鮮じゃないと使いモンにならねぇんだろ」
「……まあ、な」

 この事を公子に報告し、適切な処置―――おそらく、警吏に市中見回りを強化させる―――する事。渋沢は心に書き留めた。それから三上を振り返って、意識して難しい顔をつくった。

「それとお前、その時計はどうにかしておけよ。もっとのっぴきならない状態で鳴って、命取りになるって事もあるんだぞ」
「しかたないだろ。笠井に持たされちまったんだから!」

 三上がいまいましげに言い返した。
 渋沢の脳裡に、あの奇妙によそよそしく、綺麗なアサマイトの顔が浮かんで、すぐ消えた。笠井は武蔵森にいる血族の中でも、とりわけ渋沢が気を許せない男だった。親友の三上が、彼と他人でなくなった時、渋沢は祝福するような顔をして、内心は厄介な事になったと思っていた。それは何も、アサマイトという氏族に対する偏見のみからではなく、笠井の―――あの雇われ暗殺者の、得体の知れなさからくるものだった。

「…何だってパティ・ペイジなんだ」
「知るかよ。俺はアズナブールとかの方が好みだがな。 You came down the aisle, wearing a smile……大体このaisleってのはどういう意味だ」
「教会の通路って事さ」
 渋沢は律儀に答えてやった。アサマイトの考える事など、とにかくわからない。わからないがとりあえず、やる事だけはやってしまおうとシャベルを手にした途端、背後でざりっ、と石の擦れ合う音がした。
 

二人の反応は、素晴らしく速かった。渋沢はシャベルを放り出して墓石の陰に身を潜め、三上は胸の高さに電光のようにレイピアを構えた。しかし、何かが襲ってくる気配はなかった。めひしば忍冬(すいかずら)とが生い茂った墓場の薄闇から、石臼を挽くような音が、断続的に聞こえてくるだけだ。よくよく見れば、小径のつきあたりの真新しい墓石が、下から突き上げられるようにガタゴト動いている。

「…………」

 二人は顔を見合わせた。お互い死んでからかれこれ、数百年は経つ身だったが、こんな安手の怪奇映画のような体験をした事はなかった。動く墓石?吸血鬼映画じゃないんだぞ。

「……三上、油断するなよ」
「……お、おうよ」

 渋沢のこころもち乾いた声に、三上が強ばった面持ちで答えた。FBIの犯罪捜査官みたいな足どりで、二人は件の墓石に近づいていった。…と、渋沢の靴が何かを踏みつける。 
「…見ろ!これを」

 渋沢は押し殺した声でささやいた。

「何だ?」
「シャベルだな。さっきの連中、墓を暴きに来ていたんだ」
「……よせよ。あの動いてる墓をか?」
「多分」 

 その時、どすっという鈍い音とともに、墓碑がついに倒れた。二人は凝然として、ぽっかり空いた空間の闇を見つめた。土煙が残っている。それきり墓地は、再び森閑とした。


 たっぷり三十秒、渋沢は逡巡していたが、結局早足で近寄っていって、おっかなびっくり暗い墓穴を覗きこんだ。こういう場合でも、三上はちょっとずるいのだ。自分が最初に覗きに行くなど、リスクのあるようなまねは決してすまい。
 深さ五十センチほどの竪穴の底には、金錨打ちの、豪奢な黒い棺が横たえてあった。銀色の十字架を設えた上蓋が、斜めにずれている。怖ろしい事には、その隙間から透けるように青白い腕が突きだし、不気味に空を掴んでいた。

「おーい、渋沢、何かあったか?」

 推定五メートル後方の墓石の陰で好きな事を言っている小心者を、渋沢は黙って手招きで呼び寄せた。

 棺桶を一目見るなり、三上も眉をひそめた。彼もまた、ポーの「早すぎた埋葬」を読んでいたので、生きたまま葬られる事例について予備知識がないわけではなかったが、しかしこの分では墓の底にいるのは、まともな生者ではなさそうだった。はねのけられた墓石は、軽く百キログラムはあるだろう。枯木のような腕一本で、動かせる代物だろうか。
首を傾げて振りかえり、

「お、おい渋沢、お前何を……!」

 三上が声を荒げたのは、渋沢が不意に、身を護るサーベルも置いて、穴の底に飛び降りたからだ。彼は狼狽した。

「おい渋沢…」
「三上、万が一おかしな事になったら、逃げてくれよ」


 渋沢は棺を開けようとしていたのだ。
最初に眼に灼きついたのは、あの腕の白さだった。絹の縒(よ)り紐のような静脈の浮いた、手首の細さだった。華奢な手指には、今気づいたのだが、血色の大きな石をあしらった指輪が填っていた。この腕の持ち主を、どうしても見てみたかった。  


「渋沢!」

 親友の諫言を半ば無視して、渋沢は棺の蓋を押し開けた。




 墓地は―――午前零時半―――再び静寂の中にあった。絲杉が夜風の言葉を時おりつぶやく他は。
 渋沢の、棺の蓋を掴んだ指は、神聖な物に触れて火傷したように、ぎゅっと手の内に握りこまれていた。三上の死んだ喉が幾星霜ぶりに、墓場のかび臭い空気を吸い込んでひゅーっという音を出した。
 棺の主は、その謎めいた姿を、今や月明かりの下に、全くではないにしろ、晒していた。
たっぷり三百年は生きた二人の血族を畏怖させ、かつ得体の知れぬ感銘の虜にさせるには充分な姿だった。カルパチアの花嫁がするような綾織りのヴェールの下の、完璧な古典美を宿した貌(かお)が、何と仄白(ほのしろ)かった事。そこには何の表情もうかがえなかった。尖ったおとがいを僅かにそらし、脆弱な首筋から下を覆うのは、やはり純白の経帷子(きょうかたびら)だ。細い躰は、帝国期ローマの戦死者のように、蝦茶色と金モールの軍旗でくるまれていた。左手は、そこだけが苦悶の徴(しるし)のように、棺の外に延びている。もう一方の手は胸の上で、弔いの証の白薔薇と、いちいの枝を掴みしめていた。

 渋沢は凍りついたように、その場に立ち尽くしていた。ふと我にかえった親友に後ろからどやしつけられなければ、もしかすれば、ずっと。

「渋沢、こいつは一体何なんだ!?」
「……わからない。だが」

 ただ者とも思えない、という渋沢の言葉に、三上は黙って頷いた。埋葬者の青褪めた口許には、まぎれもない一対の牙がひそんでいる。血族だ。
その唇が不意にうごめき、しわがれた呻吟を漏らして二人を動転させた。左手の指が空を掻き、見る間に上体がバネ仕掛けのように跳ね起きて、その衝撃で頭からヴェールが滑り落ちた。

 闇色の髪と、鋭く印象深い双眸が、それでついに露になった。
金のように大きな、眼の中に瞳は限りなく小さかった。悪い夢に出てきそうな眼だ。古代の神像のような優美な顔立ちとは、それは明らかに不均衡だったが、しかし不思議にも、全体の魅力を損なうような事はなかった。極端に引き絞られた瞳が渋沢と、竪穴の縁の三上を映していた。

「…Quis?」

 声が、した。
弱々しく、掠れた声だ。か細い喉から絞り出されたわりには低い声で、ようやく彼が男性であるという確証が得られた。三上がかがみ込んで、胡乱げに渋沢に耳打ちした。

「何言ったんだ、こいつ」
「ラテン語だ。俺たちが誰かと訊いてる」

渋沢は素早くささやき返す。それから数十年来使っていないラテン語を、脳の片隅から引きだして紡いだ。
「Vampire, sum.(血族だよ)」
「Quam.(そうなのか)」

 男は―――まだ少年とでも言うべき容貌だったが―――鷹揚にうなずいたのみだった。そして痩せた右手をもたげ、真顔で一言、つけ加えた。

「Vale.(去れ)」

 さすがの渋沢の面にも、苦笑が浮かんだ。少なくとも武蔵森の版図内で、正体不明の血族など放置しておくわけにはいかない。とは言い条、相手の力量も知れないので、渋沢は鄭重(ていちょう)に言葉を選んだ。

「Vampiri nil a me alienum puto.(君に関わる事が、俺にまるっきり無縁だとは思わないけどな。) Unde venisti?(大体どこからここへ?)」
「……Non intellego.(わからん)」

 何のいもなく、彼は答えた。目つきは真剣そのものである。渋沢は困惑を隠せなかった。狼狽に拍車をかけたのは、棺の中でよろよろと、少年が立ち上がった事だ。痩せているので小柄に見えたが、立たせてみれば、三上と同じくらいの上背はあった。したがって顔が近い。しかし力無かった。渋沢は思わず一歩踏み出して、その痩せかれた手首を掴んでいた。

「Quo is?(どこへ行くんだ)」
「Non intellego, vacuus.(わからん、何ひとつ) ……Noil me tangere!(俺に触れるな!)」

 突然、激発したように彼は、渋沢の手を振り払った。しかし、途端足がもつれ、狭い穴の中で、かえって渋沢にもたれかかるような格好になった。小さな顔が胸板のあたりに埋まると、渋沢の死んだ心臓は奇妙な戦慄に突き動かされ、生きていたころのように高鳴った。両腕を肉のない背中に回してみたいとすら思った。

 ―――実際、そんな不躾な振る舞いをしないですんだのは、業を煮やした三上が頭ごなしに怒鳴ったからである。

「てめえら、大概に俺にもわかるようにしゃべりやがれ!」

 渋沢はすんでのところで両手を縮こめた。少年は首をもたげて、冷ややかな眼で三上を見た。そしてやはり一言。

「いいだろう。だが、それほど時間は取らせるな」


 綺麗な、訛りのない、英語だった。




「英語が話せるんなら、頼むから初めにそう言ってくれよ…」

 不意打ちで語学の試験をくらった学生のように、脇腹に厭な汗をたっぷりかいた渋沢の声は、さすがに疲れていた。もっとも冷や汗の原因は、言葉の問題だけではないが。一瞬の衝動に突き動かされて、わけのわからない行動にでなくてよかった、本当に。特にこの悪友の見ている前では。

「お前がラテン語で返したのが悪いのだ。それにラテン語は、ある程度学のある階級の共通語ではないか」

 しかもこの埋葬者の言葉はやたら無感動で、冬の空っ風よりも冷たいときたものだ。渋沢が苦言を呈するより先に、しかし三上の方がカチンときた。

「てめえは一体何様だ!」
「何様なんだろうな。本当に」
「とぼけるなよ」
「わからんのだから仕方がないだろう。…しかしこの段差では話しづらいな。上がりたいので手をかしてくれ」

 あれだけつれなく渋沢には、触れるなと手を振り払っておいて、三上には平然と手を延べる。渋沢は内心、面白くなかった。しかも三上が何という事もなくその手を掴み、ひょいと引き上げてしまったから、渋沢には仕方もなくて、一人で墓穴の縁に飛び上がった。

「……で、お前、氏族は何だ?いつ生まれた?父は誰だ?派閥は?」
 目線が合うやいなや、三上は少年の肩を掴んで質問責めにした。渋沢は鼻白んだが、止めはしなかった。間違いなく、それが血族―――それもこの地域を支配する―――として、最優先の質問だからだ。馬鹿みたいに、(自分のように)彼の名前を真っ先に知りたがったりはしないとも、決して。ヴァンパイアというものは。
 少年は一瞬面食らったようだが、すぐに淀みない口調で質問に答えた。

「我が氏族はツィミーシィ。生まれは言う必要もない。父の名は知らないが、もう滅びた事は確かだ。派閥には……属していないだろう、多分」

 ツィミーシィ―――怨敵サバトを統べる非人間的な氏族―――という言葉に、一瞬二人の肩が強張ったが、それだけだった。何となく予感はしていたのかもしれない。そもそも彼は、違いすぎた、決定的な何かが。それはあるいは人間が魂とか心とか呼んでいるものの、内面における有無であったかもしれない。いやしかし、今はそんな事は問題ではない。ツィミーシィならば、敵なのだ。カマリリャの、ヴェントルーとトレアドールの。

「……その多分ってのは何だ」
 意図せず低くなった声で―――しかし少年がそれに気づいた様子はなかった―――三上は切り返した。気の早い右手が、腰に手挟(たばさ)んだレイピアの柄に行ったり来たりしている。渋沢の喉は、ものも言えずに凍りついた。 「それ以上訊くなら、そちらも名乗るのが礼儀だろう?」

 しかしこのツィミーシィは、ここでちょっとした駆け引きに出たようである。二人はたじろいだ。互いの顔を見合わせたが、少年が虚ろな美貌の下に、何を考えているかなど知る由もない。ただ嘘は、通じそうにない目だった。嘘を赦す目でもなかった。
「……俺たちは」

 だから、渋沢は正直に答えた。

「カマリリャの者だよ。俺はヴェントルーの渋沢克朗。こちらは俺の同輩」
「…三上だ。トレアドール」

 しぶしぶといった調子で、三上が言葉を添える。一応レイピアから手を離しはしたが、見るだに警戒を解いてはいなかった。

「なるほど。それで俺がツィミーシィだと警戒したわけか。だが俺はサバトではないぞ。……一応」

 だからその“一応”は何だ、と三上がわめきだしそうなのを、渋沢は目顔で抑えた。何か事情がありそうだ。

「さっき、どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからないって言ったね。その言葉に嘘はないかい?」

 渋沢の問いに、何か答えようと口を開いて、この時初めて、少年の顔に表情らしきものが浮かんだ。それは眉間のあたりに灰色の困惑となって顕れた。冷然としていた瞳が僅かに泳ぎ、指先が頼りなげに弔いの花を掴んだのを、渋沢は見逃さなかった。

「嘘はない?」
「…嘘はないとも」
「じゃあ」

渋沢は重ねて問うた。

「君は、ひょっとして記憶が無いんじゃないか?」


 実際のところ、血族の記憶は人間のそれ以上にあやふやなものだ。吸血鬼が何百年、あるいは何千年という時と記憶の洗礼に耐え得るのは、彼らが有する超人的な忍耐強さの恩恵もあるが、多くは単に、時間感覚が非常に粗雑だという点に尽きる。血族の脳は、それは人間よりは優秀にできてはいるが、結局のところ終わりのない何世紀もの時間を、定命の者ほど緻密には憶えていられないのである。何百年かの休息の眠りに入り、目が覚めたら今までの事をすっかり忘却していたなど、それほど珍しい例でもない。

 立ち上がった拍子に肌蹴た経帷子の襟を、渋沢が正してやると、少年はおとなしく首を垂れた。めっきり不安げに双眸を伏せて、そうすると驚くほど睫毛が長いようだった。彼にはやはり、きわめて曖昧な記憶しかなかった。

「……生まれたのはカルデアのウルだ。そのころには父なるツィミーシィもまだ御存命であられた」

か細い指先が、いちいの葉を一枚、むしった。その動作自体は弱々しかったが、口にした言葉はきわめて重い。ウルといえば古代史の、あの中東の古バビロニアの都ではないか。その繁栄は、血族全体の歴史と同じくらい古く、紀元前二十世紀ごろと言われている。渋沢は凝然として、思わず言葉を遮った。

「…待ってくれ、それなら君はメトセラなのか?」
「メトセラだって!?」

 三上の、どちらかといえばうんざりしたような声がかぶさった。少なくともルネサンス以降に生まれた血族は、アンテディルヴィアンやメトセラの存在を、おとぎ話同様に思っている節がある。それでも三上の声音には、少年の言葉を疑っているような色はなかった。まったく、疑うには彼の言葉は、四千年分の疲労を背負いすぎていた。おとぎ話として片付けてしまいたかったものを、不意に鼻先につきつけられた不快感だけが感ぜられた。

「で、そのお偉いメトセラ様が、こんなところで何地面に埋まってんだ?」
「わからんな。そもそも俺は、従兄からの手紙を受け取り、モルダヴィアの居館を……一八七九年…………」
 そこまで言って少年の表情は、またぞろ凍りついた。「ちょっと待てよ。今は何年何月の何日だ。答えろ」

 三上はちらりと渋沢を見、渋沢は気の毒そうな顔をした。その言葉の重大な意味に気づいたのである。

「今日は一九九八年五月の、ええと……二十三日かな」
「何という事だ!」

少年の叫びは、ほとんど血を吐くようだった。

「百二十年も、俺は一体何をしていた? 急がねばならんというのに……」
「どこへ?」
「……わからん!」

 メトセラが狂乱発作を起こす現場には、あまり居合わせたくないものだなと、渋沢は内心思った。幸いな事に、少年はそれ以上取り乱す気配もなく、苦悶の表情もすみやかに鎮静していった。

「…………すまん、少々興奮した。しかし困ったものだな。本格的に何も思い出せないぞ」

 どうすればいいのだ、と嘆息する。半神のごときメトセラにも、“まいる”という事はあるらしい。物言いのしかつめらしさとは裏腹に、寄る辺をなくしたように悄然とした姿は、かえって哀れを誘うほどだった。

「何か手伝える事はないかな」
 渋沢は少年の痩せた肩に手を置いた。背後で三上が、大仰にいやなそぶりをしたのがわかったが、気にもならない。少年は顔をあげたが、渋沢の顔を見たのか、肩越しに夜空の月と、死の蔭のように聳(そび)える絲杉を見たのかは定かでなかった。

「……そこまで世話にはなれない。だがもう一つ教えてくれ。ここはどこだ?」
「武蔵森市だよ。アメリカの、マサチューセッツ州」
「……そうか…………」

 モルダヴィアの古城を出て、それ以来の記憶がないというメトセラが、いかなる百二十年の彷徨を経て、大洋を隔てたこの地にたどり着いたものか。渋沢の知りうる限りの知識では、度し得る説明がつけ難かった。渋沢が黙りこむと、少年はこれで用は済んだとばかり、その脇をすりぬけて墓場の小径に歩み去ろうとした。


「ま、待ってくれ。どこへ行く?」

 渋沢はあわてて、再びその手をとった。それで気づいたのだが、少年は裸足だった。白い陶土色の、纏足されたかのように小さな足が、ぬかるみと砂利の道を踏んでいくのは痛々しかった。その歩みさえ覚束(おぼつか)ない。

「わからん。が、行かねばなるまい」

 四千年来、命令する事に慣れた者の声で、メトセラは答えた。虚勢のようには聞こえない。逆らいがたかった。

「朝まであんまり時間がないぜ」

 三上が横から言い添える。

「そうだ。行くところがないならとりあえず、この版図のエリュシオンに来ればいい」

 名案だとばかり、渋沢は語りかけた。そこで少年はようやく足を止め、思案顔になった。

「エリュシオンに?」
「うん。君もしばらくはこの界隈にいるだろう?それならここの公子にも顔を通しておいた方がいいんじゃないか」


 それはきわめてまっとうな提案であった。武蔵森はカマリリャに属する都市である。そしてカマリリャの根幹たる“六条の掟”の第五条、“歓待の掟”によれば、都市に新しくやってきた―――短期間の滞在であれ、永住を望むのであれ―――よそ者は、都市を管理する公子に拝謁し、滞在許可を求める事が義務づけられている。義務を怠れば、都市の血族全体からの制裁が待っている、というわけだ。もっとも、掟やカマリリャそのものより古い存在であるメトセラや一部の長老は、しばしばこうした掟を尊重せず、都市の統治に波風をたてるのだが。


「なるほど、それは双方に利のある考え方だな。版図内で俺に好き勝手をされては、お前たちも困るのだろう」

 果たして、値踏みをするような目で切り返されて、渋沢は言葉に詰まった。別に下心があって親切面をしたわけではないのだが、言われてみればその通りである。気まずくなって押し黙っていると、

「まあいい。俺も今世紀生まれの小僧どもに、いちいち煩わされたくはないからな。エリュシオンには顔を出すとしよう」

 少年はあっさりと割り切ったものらしい。エリュシオン行きを承諾した。渋沢の手に花束を押し付けたのは、持って歩けという意思表示だろう。それを見た三上が早々と、墓場の道を市内に向かって歩きだした。渋沢は自分が着ていたフロックコートを、黙って少年の肩にかけてやった。


「……手間をかける」

 謝辞は、やはり弱々しかった。サイズの合わないフロックの襟からのぞくはいっそう細く、肌の白さが映えるという意味で、このメトセラに黒はきわめて似合っていた。その手を渋沢が取っても、今度は拒まれる事はなかった。

「そういえば君、名前は何ていうんだい?」
「…………」

 歩きだしてから渋沢は、少年の耳許にそっと囁いた。彼は驚いたように、大きな眼で渋沢を見つめた。それまでは地平線の、死にかけた白い月を見ていたのである。絲杉の林はいつしか途切れて、街路沿いにアメリカ篠懸(すずかけ)とモミジバフウの木立が細く長く延びていた。国道に出る曲がり角で、三上が早くこいとわめいているのが見えた。


「それも忘れた?」
「…不破大地だ」


 不意に、存外にしっかりとした声で、彼は答えた。渋沢は目を大きく見開き、それから細めた。まさしくそれは、灼きつけられた緋文字のように、彼に似つかわしい名だと思えた。

「……そうか。不破、大地君か」
「そうだ」

 気のせいほどに、肯(かえん)じたその声は、優しいようだった。渋沢はただ暗澹(あんたん)とした、行く手を見つめた。
 月を喪(うしな)った、国道は闇の中だった。










 名状しがたき夜々は、その晩から始まった。
 それは、神をも畏れぬ蜃気楼を地上に現出する事であった。
                       ヴィリエ・ド・リラダン、『残酷物語』




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