国道に出てすぐに、渋沢はタクシーを拾った。
 市街地までは一キロあまり、歩けば十五分もかからない距離である。三上は文句を言ったようだったが、何にせよ素足の不破を長々と歩かせるわけにはいかなかった。
 車に乗りこむ時、不破は窓際の席がいいと存外に子供じみた事を言って、またしても三上とひと悶着起こしかけた。三上も可能な限り窓際の席を確保したがる質なのだが、これは別段外の風景が見たいからではなく、車酔いのためである。結局渋沢が助手席にまわる事でけりがついた。


「…植民地時代からの町だな。少し、旧世界の名残がないでもない」

 車が走りだすと、窓ガラスに顔を押しつけるようにして外界をうかがいながら、不破はそんな事を言った。渋沢は振りかえって、その横顔を見た。

「わかるのか?」
「フィラデルフィアやボストンとよく似たにおいがするからな。一度だけ、アメリカに来た記憶があるが、その時は独立戦争前だった。ベンジャミン・フランクリンはメーソンリーだったが、やつのつてで新大陸に物見遊山に来たのだ。あのころはまだ、こっちにはカマリリャもサバトもなかったがな」
「奇遇だね。俺も丁度そのころこの町に来たんだよ。町というよりは入植地だったかな。それで独立戦争の時は、焼け出されて往生したよ。なあ三上?」
「知るか。こっちはそのころはまだ、パリでリシュリュー卿のための汚れ仕事をやってたさ」

 憎々しげに、三上は吐き棄てた。彼が生前カビネ・ノワールの一員だったとか、機密を盗んで逃げる際にかの三銃士のダルタニャンに追われて殺されそうになったとか、その手の逸話は武蔵森の面々が事あるごとに聞かされて、大概にうんざりしている代物であったが、初耳の不破にはそれなりに興味深く聞こえたものらしい。

「面白いな。アレクサンドル・デュマには会った事があるが、その小説世界の住人となると、ちょっと見た事はないぞ」
「事実は小説ほど綺麗じゃねえぜ」
「無論だ」


 いったん話しだすと、ともかく三上は口上がうまい。何となく話をそちらに持っていかれてしまったようで、渋沢はあまりよい気分ではなかった。三上も三上である。墓地ではあんなに愛想悪く、不親切だったくせに。



「新市街のショッピングモールへやってくれ。ヴィラ・ド・エギーユへ」

 タクシーが市街地に入ったようだった。頭を切り替えて、渋沢は運転手に命じた。血族が交通機関を使う時、最初から目的地を言ったりは決してしない。それこそ、誰が見ているかわからないのだから。いつも関係ない場所をぐるぐる巡らせたり、途中から気まぐれで、目的地を変えたふうを装う。

「…そこがエリュシオンなのか?」

 丁度三上の苦労話が一段落したところで(「で、その時マスケット銃で撃たれた傷が、この欠けた耳朶ってわけだ」)、不破はちらりと渋沢を見た。

「エリュシオンは、モールの中のホテルなんだ。ちょっと騒がしいけど格式はあるし、人間は入ってこないから、寛ぎやすいと思うよ」
「……そうか。聞き忘れていたが、公子の氏族は何だ」
「トレメールだよ。桐原様という方だ」
「トレメール……」

 不破の眉宇が、僅かに曇ったようだった。トレメールとツィミーシィは、あまり仲がよい氏族とは言い難い。どちらかと言えば天敵である。

「それでは俺は、歓迎されそうにはないな」
「大丈夫だよ」

あわてて渋沢は言い添えた。

「心の狭い方じゃないんだ。どっちかというと、ウィーンの上層部連中よりは開明的な質だし。話がこじれそうだったら、俺がとりなすから……」
「……そうしてくれるか」

 その言葉が、安堵を呼んだのかはわからないが、とにかく不破は再びガラス越しの風景に意識を集中させだした。目地の限りの、赤や青の灯火が滲むように瞬いている夜の光景を、食い入るように見つめている。やがて車がホテルに着くと、今度は玄関の、巨大な円筒形をしたガラスの回転扉に多大な興味を示し、人が通るたびにスライドする動きを、小首を傾げながら見分していた。躯の線が細いせいもあろうが、そうしたさまは本当に子供のように邪気がなかった。

タクシーの運賃を支払いながら、その姿に渋沢は目を細めていた。小さな子供を暗い陋屋から連れだし、華やかな遊園地に連れてきてやったような、誇らかな気分だった。そうすると百年来、見慣れたモールとアーケードの電光も、いっそう明々と輝いて見える。何とはなしに、渋沢の気分も華やいでいた。



「おい渋沢」

 その時、少し離れたところで煙草を吹かしていた三上が、抑えた声をかけてきた。

「何だ?」

 聞き返した渋沢には答えず三上は、大またで近づいてきて、眉根を寄せて彼に耳打ちした。

「何だか随分とにやついてやがるようだがな、不破にはあんまり気を許すなよ」


「……何故だ」
即座に渋沢の貌は、厳しさを取り戻していた。にやついていると言われるのは心外だが、気を抜いていたと言われれば、反論はできない。

「不破君が、何か?」
「少なくともあいつは、百二十年穴の底で惰眠を貪ってたってわけじゃねえな。嘘はついてねえかもしらんが」
「どうしてわかる?」

 三上は大仰に肩をすくめた。しかし声は高めなかった。

「車だよ。百二十年前の奴が予備知識もなしに、鉄の塊なんかに平気で乗るか。ちょっとは考えろ」
「…………」

 渋沢は言葉に詰まった。
正論ではある。あのメトセラはやはり、何がしかの隠し事を抱えているのか。だとしたらそれを語るには、渋沢たちは適任ではないと判断されたのか。そちらの方がむしろ、渋沢には悲しく思えた。

「…だが、記憶が不明瞭なだけかもしれないじゃないか。車に乗った事はあっても」
「お前、随分とあいつの肩を持つのな」

 親友の呆れたような声に、渋沢はちょっと考えこんだ。確かに肩を持っている。今夜初めて、それもきわめて不自然な出会い方をした、愛想の悪い、敵対氏族のメトセラの肩を。その理由はいくら考えてもおいそれとわかりそうにはなかったが、すくなくとも同情が好意に昇華するというシェークスピアの理論を、自分が地でいっているという事だけは確かのようだった。渋沢は一瞬赤面して―――無論、比喩だ。血族の顔に血が上ったりなどするものか―――、話題を変えようと試みた。

「…なあ三上」
「今度は何だ」
「不破君は、ちょっとルイ・ジューヴェに似ているな」


 ―――鼻で笑われた。自信はあったのに。

「馬鹿かてめえは。どういう美的センスをもってしたら、あの不破と、まびさしの飛び出たみてえな陰気な年寄り俳優が似て見える!しかもそれが肩持つ理由かよ?」
「違う違う」

渋沢は顔をしかめて訂正した。

「目つきが、だ。この前いっしょに『舞踏会の手帖』を観にいっただろ。弁護士くずれの犯罪者を演った、あの時のルイ・ジューヴェの目だよ。顔は違う。そうだな、…………ロミー・シュナイダーってとこか」
「夢見すぎだろ、そりゃ」

 三上は天を仰いで(「おお神様、この人を見る目のないバカに救いを!」)、それから何とも冷たい、なじるような視線を渋沢に向けた。

「そうかなあ」

 渋沢は首を傾げ、話を逸らすのには成功したので内心はほっとしながら、もう少し言い募ろうとした。

「でも実際不破君は、ロミー・シュナイダーに似てると思うな」


「俺が誰に似ているだって?」

 エントランスの上からしわがれた、怪訝そうな声がかかって、渋沢はぎょっとした。見上げてみれば件の、ルイ・ジューヴェ似の双眸が、底冷えのしそうな光を湛えてこちらを見下ろしていた。

「……不破」

 三上は肩を強張らせた。どこまで話を聞かれたかと、危ぶんだからである。しかし不破は、そんな事には頓着していないようだった。つかつかと歩み寄ってきて、鼻先がぶつかるくらいまで、渋沢に顔を近づけた。

「俺が、誰に、似ていると?」
「ええと、それは」

渋沢は哀れなくらい動転した。

「不破君がね、ロミー・シュナイダーっていう女優に……」
「俺は誰にも似ておらん」

 すげなく、一刀両断された。


女優に例えられて喜ぶ男もあまりいないだろう、と三上は我が親友の、世辞の才のなさを憐れんだ。それは後から考えれば、まるで的外れな考えだったのだが、この時の三上がそれを知る由はなかった。



「案内してくれるのだろう?それなら、早くしてくれ。朝まであまり時間がないようだからな」

 不破は傲然とそう言って、白大理石のモザイク床を踏みつけ、ヴィラ・ド・エギーユの正面玄関に上がっていった。渋沢と三上はしばし暗然と、その姿を見送っていたが、やがて早足で後を追った。


 円筒形のガラスの回転ドアは、もはやそのからくりをすっかり看破され、飽きられてしまったのだろうか、不破には一顧すら、されなかった。



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