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われわれが街頭で出会う人々は、かなりの比率で中身がからっぽの、すなわち本当はすでに死んでいる人間たちだ。幸いなことにわれわれはそれを見ることもないし、知ることもない。本当は死んでいる人々がどれだけいるか、そしてどんなに多くのそうした死人にわれわれの人生が牛耳られているかを知ったなら、われわれは恐怖のあまり発狂してしまうだろう。 歩きながら渋沢が、手を伸ばして柱廊の脇を飾る樋嘴(ガーゴイル)の、青銅の鼻先に触れた。 それが何という事もない、ヴィラ・ド・エギーユに足を運ぶ際の、渋沢のいつもの癖なのだろう。嘴の形が、最初は気に入らなかったのかもしれない。ほとんど毎日のように、エリュシオンに参内するたびにひと撫でし、それが一世紀続いて、尖っていた嘴の先は、いつしか愛嬌のある丸鼻に磨り減ってゆく。時間の経過とは結局、そうしたものなのだ。鼻ばかり黄金色にてかてかと輝いている、そいつをしかし、先を行く不破はといえば、まったく無視して通った。 不破はむしろ、そんな旧世界の古城で数百年来見慣れたこけおどしの銅像よりも、内扉の玻璃窓(ステンドグラス)とか、七色の有鉛ガラスでそこに描かれた、ミュシャのサラ・ベルナールだとかを、眩しそうに目を細めて見つめていたのである。 それは省察だった。あの車窓から見た、街の灯の赤や青、燭花の光を受けてきらめくステンドグラス、眼底にちらつき、ゆらめきながら鮮やかに忍びこむ、そうした光明の彩をまどろむように眺めていると、そこから何かが呼び起こせそうでならなかった。何か輪郭のない、狂気じみてまばゆい記憶が。さよう、光だ。主光あれとのたまいければ光ありき。いやもっと不浄な光だ。そして熱と炎。あれは何だったろうか。思い出すべきだ。思い出さねばならぬ。しかし思い出せない。 嘆息して、不破は強く目を閉じ、砂金のようにさざめく意識の流れを遮断した。 思い出せないのならば、今はまだその時ではないのだろう。 生来、無駄な努力はしない主義だった。脳髄とは存外にうまくできているものなのだ。一番よい時を見計らって、思い出すべきものを思い出してくれるに違いない。思い出すべきものを、だ。思い出したいものではない。足を止めたので、渋沢がすぐ真後ろまできているのがわかった。目の前が玻璃窓の扉だった。 「ああ、開けるよ」 肩越しに、力強い手が伸びる。ドアを押さえてくれていた。渋沢は本当に紳士だ。 「すまんな」 この返礼は、どうして返したらよいだろう。 そう考えていた時である。開いた扉の内側から、突風のような非常な勢いで、何かが飛び出してきた。 「……む」 不破が素早く二、三歩退いたので、正面衝突はしないですんだ。まろび出た人影は、最後尾をよそ見しながら歩いていた三上と派手にぶつかった。 「うわ…」 転倒する事こそなかったが、三上の口から吸差しの煙草が落ちた。その唇がみるみる、痛罵の形につり下がるのが見えて、渋沢は小さく肩をすくめ、目を閉じた。 「痛えな!水野てめえ、一体何してやがる」 果たして三上の罵声が、ヴィラ・ド・エギーユの閑静なエントランスホールに響き渡った。水野と呼ばれた少年は、立ち上がって三上をきっと見返した。 「…ほう」 小さく、不破が呟きを漏らしたのは、メトセラの審美眼においてもこの血族の美しさが、特筆に価するものだったからである。 淡いはしばみ色の髪は、走ってきたせいでか少しほつれていた。鼻は白大理石の稜線のように品よく、鋭い。血の色をした唇が、怒りに噛みしめられていた。さよう、怒りに。細い眉の下の双眸は、普段は垂れ具合なのかもしれなかったがとにかく今は、嚇怒と言い知れない悲しみでつり上がっている。 ただならぬ形相では、あった。さすがの三上も胡乱げに、罵倒の続きを呑みこんだ。 「お前、何があった…」 水野はしかし、その言葉を黙殺する。一瞬不審そうな目で不破を見、それから渋沢に視線を移した。「……すみません、渋沢さん」 「謝る相手が違やしねえか?」 「……失礼します」 横から、三上が呈した苦言はまたも無視された。渋沢が何か言うひまもあればこそ。くるりと背をむけた、水野の姿は柱廊を走りぬけて、夜の向こう側にたちまち消えていった。 「……ち、あの野郎」 しばらくしてから、三上が大袈裟に舌打ちするのが聞こえた。モカシン仕様のしゃれた靴先で、憎々しげに落とした紙巻を踏みにじっている。まあ確かに、あの少年の非礼さでは、彼もぶつかられ損というところだろう。しかしこれほど腹を立てる理由でもない。不破はちらりと、渋沢を顧みた。 「あの者は?」 「…ああ」 渋沢は曖昧に笑ってみせた。しかし目が泳いでいた。どちらかといえば、何と説明したものかと思案している顔である。「…今は理由があって水野というんだが。桐原公子の継嗣で、実子でもある竜也君だよ」 「三上とは仲が悪いのか?」 今度は渋沢が、びっくりした顔になるのがわかった。 「どうした。違うのか?」 不破はもう一度、水野の走り去った玄関を振りかえる。渋沢の表情に戸惑いが深くなり、まばたきが繰り返された。 「……いやまあ、実際そうなんだけどね。やっぱりわかってしまうかな」 「おしゃべりは好かれねえぜ」 三上の険しい声が、そこで会話を遮った。剣呑な目つきである。肩をすくめた渋沢と、不破の間に割りこむように、彼は大股で歩み寄ってきた。「お前もだ、メトセラ。よく覚えとけよ」 「……心しておこう」 古風な宣誓の証のように、不破は片手を、やけに重々しくあげて賛意を表明した。もうずっと昔、ローマの元老院で、トリエントの公会議で、パリの高等法院でそうしたように。その時も―――その時でなくともおおむね―――不破は嘘をつきはしなかったが、しかし真実を全て語ったわけでもなかった。三上が背を向けて、玻璃窓付き扉をくぐった時、不破は声をひそめて、渋沢にのみ聞こえるように呟いた。無感動なその声はあざける調子でこそなかったが、 「お前のふるまいから一目瞭然ではないか」 渋沢の表情が、氷塊を呑み下したように重たく冷えてゆくのを見るのは、愉しくなくも、まあ、なかった。 八対の花崗岩の迫持(せりもち)と、広げたこうもり傘の形をした穹窿(きゅうりゅう)天井の、真下に一歩踏みこんだ途端、不破は凝然と立ち尽くした。 夜明け近いその時刻になっても、大広間の四方の装飾灯には、耿々と明かりが点っていた。ドーム形のてっぺんでクリスタルのシャンデリアがまばゆい光彩を放ち、彼の足許に短い影を、標本の蝶のように留めつける。あらゆる方向から、そうした爆発的な光の箭(や)が攻め寄せて、血族の闇に親しんだ目を仮借なく苛んだのである。 にわかに彼の裡(うち)には、空間の明るさとは裏腹の、不安の影が沸き起こってきた。何かこれは、決定的に馴染めない場所ではないかと思った。はるかな夜景や、ステンドグラスの色彩を通してみる分には問題なかったけれども、こうして惜しみなく照らす真下に立ってみれば、電気仕掛けの光はきわめて峻厳でよそよそしく、血族には無慈悲だった。陽光に別れを告げて本当に長い身だったし、彼の四千年の夜を慎ましやかに照らしてくれた蝋燭やカンテラや百燭光は、これほども威圧的に、血族の身を責めたてたりはしなかった。 つまりそれは、時代が進むという恐怖そのものだった。多くの長老が休眠から目覚めたときに感ずるのと同じ―――ただ、その変容の質が桁違いというだけで―――かつて、社会の変動は一世紀単位だったが、この世界の壮絶な変貌ぶりを見る限り、今やそれは十年単位で起こっているとしか考えられなかった。 昼のような夜が来るとは。 「不破君、……不破君?」 気遣わしげな、渋沢の声がした。無表情は完璧なつもりだったが、眉根がわずかによじれて見えたものらしい。いきなり立ち尽くしたのも心配を誘ったのだろう。まあそんな事はどうでもよい。訊きたい事があった。そして渋沢は、その疑問に答えてくれそうだった。こういう時の不破は、まるで躊躇うという事をしない。彼は尊大な挙措で振り返って、びしりといきなり言った。 「人類はもう月に行ったか?」 素っ頓狂な質問に、はあ?と派手かつ馬鹿にしたような反応をかえしたのは三上だった。たいていみんな、こういう反応をするのだ。不破はそれを、ちらりと見たかぎり無視した。渋沢が穏やかに言った。 「…行ったよ。一九六九年にね。もっとも一部には、アメリカ政府の捏造だって言うむきもあるけど」 的確な答えである。不破もわずかに笑い返した。 「そうか、では火星には?」 「まだ行ってない。でも冥王星っていう新しい惑星が見つかったよ」 「興味深いな」 「世の中の進み具合が気になるかい?」 「多分にな」 渋沢はそれ以上は何も言わず、ただ笑っていた。だが手だけを延ばして、フロント脇のスイッチをひねる。圧倒的だった光量がいくぶん翳り、不破の目が驚いたようにまばたきをした。 「…どうしてわかった?」 「君のふるまいから一目瞭然……」全然してやったりというふうではなしに、いたずらっぽく渋沢は言った。 「眩しそうだったし」 「そうか」不破も淡々と、それは認めた。 見透かした分くらいは、見透かされているという事だ。むしろ自分の不快を慮って照明を落としてくれた、渋沢の親切さを評価すべきだろう。やっと目が慣れてきつつあった。不破は低い視線を流して、広間のあちこちをうかがった。 白大理石の床の上には痛いくらいに紅い絨緞が敷かれていた。長く、突き当たりのエレヴェーターの、青春様式の鉄の格子戸まで続いている。教会風の縦長の窓が随所に設えてあったが、全て黒いフラシ天のカーテンで覆われていた。 無論、陽光を入れないためと、中の様子を外から窺えないようにするためだ。 なるほど華やかな電光に照らされ、新しさと明朗さを装ってはいるけれど、確かにここは血族の聖域だった。エリュシオンを構成している本質は、ローマ帝国末期の食人カルトやアルビ派の異端祭礼、ロンドンのヘルファイア・クラブと何も変わっていない。すなわち年老いてよじれた歳月と、倦んだ血潮の淀みだ。そう思えば皮肉にも、この無闇と眩しい現代のワルプルギスに、親しみを持つ事ができそうだった。最後に視線をやった左隅には少し照明の落とされたバーラウンジが見えた。 「あそこに行こうか。ほら、君を紹介したい人も何人かいるし」 同じところを見ていたのだろうか、渋沢が囁きかけてきた。不破は黙ってうなずいた。どうせいるなら、より仄暗いところがいい。三上が十歩ほど先を行っているのが見えた。 広間にはずっと先から、自動演奏のピアノで『カサブランカ』のAs time goes by が流れていたが、バーラウンジに近づくにつれて、別の音も聞こえてきた。それはラジオの呟く深夜ニュースと、何やらけたたましく、笑いさんざめくような人声であった。カウンター席のスツールに、若い男が二人並んで腰かけている。その片方が不意にこっちを向いて、ちぎれんばかりに手を振った。 「キャプテーン!」 何とよく通る声よ。 不破が感心している間もなく、そいつは弓弦で弾かれたみたいにすっとんできて、渋沢の目の前に立った。いい歳なので飛びつくのは、ちょっと思いとどまったという感じだ。十代の後半くらいだろうか。特徴的なほくろのある、目元に浮かんだ微笑はもっと幼く見える。 「おかえりなさい、キャプテン。遅かったっすね」 主が帰るや否や、家族の誰よりも先に飛んできて尾を振るむく毛の犬みたいなその男も、やはり血族だった。脚の長さを誇示するような黒の革ジーンズと、“エルヴィス・プレスリーは生きている”とパンク調でペイントされた白の袖なしTシャツを身に着けている。黒い髪は短く刈られており、夜のエリュシオンよりは、昼日中の競技場かどこかを駆けめぐっているのが似合いそうな、健康的な風貌だった。もっとも本当にそんな事をすれば、ものの数分で灰の山になってしまうだろうが。 「…キャプテンは、今はお前だろ、藤代」 男とは対照的に、渋沢の目じりと口許には、ちょっと年老いた感じの苦い笑みが浮かんでいた。 「ここ百年来、な」 いつの間にか三上が、藤代と呼ばれた男の背後に廻りこんでいて、かなりの力で側頭部をどやしつける。「おいこらバカ代、ご挨拶じゃねえか。俺にも何か言う事は?」 「いたたた、痛いです!もちろんわかってるっすよ三上さん、おかえりなさいっ」 「遅えんだよっ」 頭を抱えてふりかえった、藤代のさらに背後に廻りこんで、またぽかり。三上という奴も、随分と暴力的だ。渋沢が肩をすくめて、止めに入るのが見えた。とは言い条、深刻に止めているわけではないから、この程度の事は、ここでは日常茶飯事なのだろう。少なくとも不破の知るかぎり業深くて、きわめて陰険な血族の基準から考えれば、驚くべき事だ。渋沢も生得の誠実さが顔に顕れたような男だったが、この藤代もまた裏表のない人柄が、見るだに挙措ににじみ出ていた。ところで件(くだん)の藤代、三上に苛められたり渋沢に泣きついたりするのに忙しく、まだ不破の存在に気づいていない。 「…………」 自分から何か切りだすべきかと、不破が口を開きかけたその時、バーラウンジにいたもう一人の少年が、止まり木を降りて、こちらに早足で歩いてくるのが見えた。足音は、まったくしなかった。 「……誠二、カード投げてかないでよね。この勝負も俺の勝ちだったのに」 黒いシャモワ革で包まれた、少年の指は手袋の上からでもなお細い。綺麗に開いた五枚のトランプを掴んでひらひら振っている。少年の声もまた、なめし革のように滑らかで、高くもないのに奇妙な艶があった。青白い額の下の、けぶるように大きな瞳は棗形をしており、笑うといやに凄惨な、鶏小屋を荒らした後の猫のようだ。黒いスーツに包まれた細身の中では、少女めいた唇と、握られたハートのストレートフラッシュだけが、ひどく鮮やかな赤だった。 「…おかえりなさい、三上さん。そんな事なら俺がいくらでも言ってあげますよ。だからもういいじゃないですか」 あやすように、浮かべられた少年の笑みは、しかし決して眸にまで表れる事はない。不破は冷たい注視を、そろそろこの血族に向けはじめていた。少なくともこの街に来て以来、最も吸血鬼らしい吸血鬼に会ったのだ。それほどに彼は、違った。渋沢や三上、あの水野とかいう小僧や、目の前の藤代とは、遥かに。精神の異質さという観点から見れば、むしろ不破にこそ近いのかもしれない。何より彼はもうずっと先から、―――おそらくは三人が大広間に入ってきた時から、油断のない視線を不破に向けていた。無論、今も。 「―――それで渋沢さん、そちらはどなたです?」 甘皮一枚の下に険を隠した声を、少年はこちらに投げた。その言葉で渋沢も、三上と彼にチョーク技をかけられていた藤代も、一斉に不破を見た。藤代はちょっと怪訝な目をして、渋沢を見返した。 「キャプ……渋沢さん、あれ誰っすか?」 失礼にも、指をさす。 紹介しようと、渋沢が口を開きかけた時には、しかし彼は、もう不破に向かって突進(譬喩ではない)していた。 「―――ねえ! ねえねえあんた、名前何?どっからきたの?…うっわ、美人だなぁー。水野とタメはるくらい?ねえ何か言って」 無論顔には出さなかったが、不破は心底仰天した。いきなりすっ飛んでこられて、両手をつかまれてガタガタ上下に振られたら、誰でも普通は驚く。むく犬はむく犬でも、主人のみならず来客にまで飛びついて愛想を振りまくような、かわいげがあるといえばあるが、何とも迷惑な質のようだった。加えて番犬の用はなさない。 「…………」 「あれ?どしたの?」 渋面で黙りこくっていると、今度は顔を覗きこんでくる。四方八方に精気と存在感を振りまいているものだから、かなりの大柄に見えたが、近づいてみれば目の高さは同じくらいだった。やはり幼い。もっとも不破は、幼稚さを無礼の理由には認めない質だ。 「バカ代てめえ、エリュシオンは走んな!」 不躾の代償を、メトセラの鉄拳によって受ける直前に、だが藤代は襟髪を掴まれ、引きずり戻された。正しい意見だとも三上、しかし咎めるべき点はそこではあるまい。 「藤代、こちらはメトセラだ。高貴の方だぞ。ちょっとは態度を慎め」 模範的な叱責は、やはり渋沢の口からだった。二人の間をさっと引き分け、不破に向かっては済まなさそうな顔で目礼をする。その背後から猫の目の少年が、苦笑するような顔でついてきた。やはり、不破にはあまり親しめないような顔だった。だが剥き出しの好意よりは、真綿にくるまれた悪意の方が、はるかに血族社会ではありふれている。―――つまるところ、それが血族の本質というわけだ。 「…渋沢、紹介したいと言ったのはこの連中か」 かなり非難がましい声で小さく、不破は呟いた。メトセラたる者、そしてツィミーシィのヴォイェヴォドたる者は本来、齢若き血族とは軽々しく口を利いたりしない。不破はそうした慣習、あるいは空疎で古式な自負には無頓着だったし、百二十年も経てば血族の慣わしも、多少の変容をきたしているであろう事くらいは予測できたが、それでもこうした騒々しくも非礼な連中を相手にする事が、努力に見合うだけの意義を有するとはとうてい考えられなかった。渋沢の笑いがほろ苦くなる。 「…ごめん、次からもう少し躾けておくよ」 「そうしろ」 不破は横柄にそう言ってから、不承不承といった調子で、藤代に片手を突き出した。 「不破大地だ。ツィミーシィ」 「俺は藤代誠二。えーと、ブルハーですっ」一応折り目正しく、その手を握り返したものの、藤代の口許はまだ何か言いたそうにうずうずしている。「…つか、ツィミーシィ?初めて見たよー。こんな美人なんだ?」 「…む?俺は確かにツィミーシィだが、この顔は別に」 「ねえ、この街来んのはじめて?」 「ああ、まあ多分」 「そうなんだ!ね、ね、どっか行く時は言ってよ案内したげるからさ。これでも俺一応……」 「…藤代は、この街の警吏なんだ」不破が大概げんなりする前に、横から渋沢が言葉を添えた。「ああそう言えば、これはまだ言ってなかったね。俺がこの街の家令。三上はトレアドールの参議だ」 暴力トレアドールの参議に、アメフトの選手でもやっている方がサマになりそうな警吏。よくよくの人材不足だなという言葉は、ここでは言わず、後で公子にぶつけてやろうと心に決めた。「それで、そちらの者は?」 呼ばれて猫の目の少年が、振りかえり笑った。笑顔は剃刀のように薄く、鋭かった。 「…はじめまして不破さん。俺は笠井竹巳、アサマイトです。公子の思し召しで、この都市の鎮守を務めさせて頂いております」 「…そうか」 こうした礼儀正しい―――その下で何を考えているかなど察したくもないが―――振る舞いには、かえって興味をそそられなかった。かつてのアテナイやダマスカスやコンスタンティノープルにも、こうした笑い方をする血族はいたのだ。アサマイトは血族の殺し屋である。血と金の報酬しだいでカマリリャにもサバトにも雇われ、果断かつ冷徹に、敵の命を奪う。アサマイトの暗殺者を飼っておく事は、カマリリャの公子たちの間では、一種のステータスシンボルですらあると聞いた。―――愚かな事だ。胸元で蠍をあやしているという事に、何人が気づくのだろうか。 「ひとつ聞くが、お前は、デルヴィッシュか?」 「…ツィミーシィ殿は慧眼で。そういう貴方は変転者?」 「そうだ」 アサマイトとツィミーシィ、どちらも人間の世界とは、半分と少し向こう側にいる。暗殺者と、それを政敵の喉許に突きつける陰謀者という違いこそあるが。カマリリャの羊どもが嫌う道理だ。おおむね彼らは、〈啓発の道〉に従うヴァンパイアをひどく忌んでいるのである。自身が失われた人間性のよすがに縋り、〈獣〉を否定するがゆえに、すでに人間の倫理とは決別してしまった者たちを、許容したくはないのだろう。 現に渋沢は、如才なく慇懃に振舞ってはいたが、笠井とは決して目を合わせなかった。変転者、という言葉が出た一瞬、ひどく苦い顔をしたのにも気がついた。 自分にも悪い印象を持たれただろうか。そう考えると、少し浮かない気分になった。随分とよくしてもらったのに、不快にさせるというのも没義道(もぎどう)だ。何か弁明すべきかと、口を動かしかけた時、 「不破ー、今度はそっちがしゃべる番ー。…つかキャプテン、俺の自己紹介まだ終わってませんよぉ」 著しく話の腰を折り、なおかつちょっと厭な雰囲気になった場を助けたのは、藤代の間の抜けた一声である。 申し合わせたように三上が、その頭を痛打した。 暴力トレアドールが公子のご意向を伺いに行っている間に、渋沢は無人の厨房に入って、四人分のカフェ・ロワイヤルを手早くこしらえた。黒カーテンの向こうでは夜が明けていたが、どんよりと曇って、その上小雨が降りだしたようだ。これくらいの天気なら、厚着をすれば血族でも、外を出歩けない事はない。遊びにいける、と藤代がはしゃいだ。 「誠二、よくそんな元気あるね…」 笠井の大あくびは、あてつけのようだった。いずれにせよ、血族は昼には弱い。自然に反する存在であるせいか、日中のほとんどの時間は棺の中で、深い眠りに費やす事になる。渋沢もあくびをかみ殺していた。不破自身はといえば、墓の底で長々眠っていたからか、それとも以前から実験などで、不眠不休の生活がざらだったせいなのか、存外にぴんぴんしたものだ。 「タクー、遊んでくんないの?」 「誰が。それよか誠二、遊びに行くなら、俺に三十八ドル五十セント払ってから行くのがスジってもんだからね」 「えッ? タクそれちょっと待って…」 「藤代、何だその三十八ドル五十セントというのは」 「こいつが俺にポーカーで負けた分ですよ。こういうのはきちんと白黒つけとかないとね?」 笠井がわざとらしくにんまり微笑むと、渋沢はさも嘆かわしいというふうに、眉間に手をやった。 「…賭け事は感心しないがな。藤代、きっちり返すまで、“昼遊び”はなしだぞ」 「ええええ!?」 藤代の愉快な昼遊び計画が、二人がかりでとことん解体されていくのを尻目に、不破はスプーンの上で燃える角砂糖を、とことん無感動に凝視していた。 ゆらめく炎もやはり、記憶の欠損部にある何かを示唆するような刺激信号を、眼底にもたらしていた。それが何を意味するのか、よい徴なのか凶兆なのか、まだ彼自身にも定かにはわからなかったが、時が来れば―――そして情報が出揃えば、全ては明白となるはずだ。それは、別段遠い未来でもないはずだった。 メトセラの尺度からすれば。 「……不破君、どうしたの。疲れた?」 黙想を破られて、不破はちらりと冷ややかな視線を渋沢に送った。真正面だった。 「いや、疲れてなどいないが。なぜだ」 「…何となく。疲れてなければ、それでいいんだよ」 渋沢は目を伏せた。膝の上に両肘をつき、組んだ手を目の上に押しつけているところは、自分の方がよほど疲れている感じだった。 おそらくは、人に気をつかったり、相手の心情を慮りすぎるタイプなのだ。不破は思った。自分とは正反対である。人の気持ちなど、推し量ろうとした事すらない。それでも長く生きていると、ちょっとした挙措や立ち居振る舞いを見ているだけで、大抵の人間や血族のおおまかな性格は、手に取るようにわかってしまうのだったが。 右手のソファでは藤代が所在無げに、足をブラブラさせていた。その正面、不破から見て左には笠井だ。淹れてから大分経ったコーヒーを、神経質に吹き冷ましている。渋沢と三上がそうであるように、この二人の血族もまた、あらゆる点できわめて対照的と言えた。 藤代については、その人となりを考察するのに、不破は大した時間を割かなかった。ましてや何を考えているかなど。何か考えているのか、というのが正しいものの見方というものだろう。そして答えはたぶん否。あまり見ない類の血族だ。 対して笠井は、不破の中では長年堆積したアサマイトの暗殺者全般のイメージに埋もれてしまい、特に新たな印象を感ずる事もなかった。振る舞いは麗々しいものの、裡に秘めた毒を隠しきれていない。美貌もかなりのものだが、あの水野とかいう少年には華美さの点で少し見劣りするだろう。そういえば、三上とはごく親しい仲のようだ。 こうした考察は、実際時間にすればわずか数秒の間に、電光の速さで不破の脳髄を駆け巡っていた。彼は正確さと同様に、迅速もまた尊んでいる。生涯におけるたいていの劇的な場面では、立ち止まってあれやこれやと考えている時間などなかったのだから、これは賢明な考え方に違いなかった。 このメトセラは、まだ死んではいないのだから。 十九世紀風の柱時計が、重たい六時を打った。 笠井はコーヒーに口をつけていた。まだつけっぱなしだったラジオが、今度は朝のコーヒー占いだとかの特集を叫びだし、それを聞きながら藤代が、デミタスカップを色んな風に傾けている。退屈という事を、しない男だ。 「渋沢。コーヒーをもう一杯所望したい」 静かな口調で、不破が言った。 ヘラルド・トリビューン紙の経済欄を拾い読みしていた渋沢が、つと顔をあげる。 「いいとも。ちょっと待っててくれ」 新聞を傍らに置いて、いそいそと立ちあがった。人の世話を焼くのは、これもまた性分であるらしい。厨房に灯りが入るのが見えた。不破は新聞に目をやった。手にとって読もうかとも考えたが、自分に理解できる記事の方が少なそうなので、やめた。後でラルースか、ブリタニカ百科事典の最新版でも読めば事足りる。外でも見ようと、視線を上げたところで、自分と渋沢のカップを興味津々見やっている藤代に気がついた。 「ね、不破はどうだった?」 「…何がどうなのだ」 「コーヒー占い」 ばかばかしいとは思ったが、手許のカップに視線を落とした。底に茶色いまだら模様があるだけだ。これでどうして、未来の事だのがわかるというのだろう。誰か統計でも採ったのだろうか。それならば、肯けないでもないが。「ただの染みだな」 「つれない事言わないの」 「だが染みだ。……ところでお前」 「何?」 不破は、真冬の湖よりも温かみのない眸で、藤代をちらりと見た。 「渋沢の話だが、お前は俺と仲良くしたいか?」 藤代は目を丸くした。視界の隅で、にわかに笠井が肩をすくめて冷笑したのが見えた。大概に無礼な奴だ。 「…それ、渋沢さんが言ったの?」 「ああ、そうだが」 「ふうん…」藤代はすこし、考えこむような仕草をした。丸くした目をいったん閉じて、それから口許だけが何かなし、面白そうに微笑んだ。「ねえ不破、これは私見なんだけどさ、それって多分、渋沢さんが…」 「オラ退け、バカ代!」 癇症な罵声とともに、藤代の後頭部がピシャリとはたかれたのはその時である。跫音も高く、我らが暴力トレアドールが帰ってきたのだ。彼は続いて不破の頭も叩こうとしたようだったが、折よく――――というか、悪しくというか―――そこへ、湯気のたつ紅茶盆を片手に渋沢が入ってきた。 「何をやっているんだ三上。大人げない。……で、公子のご機嫌はいかがだった?」 「不破の話持ちだす前に、何で儀式用の死体を持って帰ってこなかったのか延々言い訳させられたよ。ど畜生」不機嫌を隠さない調子で、三上は不破の頭の代わりにか、椅子の背板をばしりと叩いた。「おい不破、てめえ感謝しろよ。公子はよそ者の話なんざ明日の晩にしろっつったんだけど、それじゃお前が困るってもんだろうから、この俺が下げたくもねえ頭下げてやったんだ。たのむからこの上、俺の顔潰すような真似はしてくれんなよ」 「その余計な一言がなければ、充分感謝したものをな」 さらりと憎まれ口をたたいておいて、不破は立ち上がった。三上はまたぞろかちんときたようだが、とりあえず、笑いだした藤代に怒り(と暴力)の矛先を向けることで、不破は黙殺することにしたらしい。不破がエレヴェーターの方に歩みを進めると、その横に渋沢が従った。 「謁見には立ち会うよ」 不破は目だけで頷いた。そう言われれば断る理由もなかったし、そもそも独りでは、公子の部屋の在り処もわからない。ただこれ以上、渋沢に借りが山積するとしたら、それはそれで厄介だなと、何となく考えてもいた。 「…手間をかける」 「気にしないで」 渋沢はどこか、微笑んだようである。 聞くともなしに聞こえた怒声と悲鳴から察するに、余談ながら、渋沢が持ってきたきりテーブルの上に置き去りにされた二杯目のカフェ・ロワイヤルは、藤代の頭にぶちまけられるという形で有効利用されたもようだった。 わたしたちが、プーさんとおともだちになり、さて、ものがたりははじまります。 |