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「何をしているのだ、渋沢」 不破がふりかえりざま、渋沢を呼んだ。 謁見の間からエレヴェーターホールに続く曲がりくねった廊下には、黒々と深い、不破の影が延びている。サヴォヌリー織りの緋絨毯の、測ったように中央を歩むこのツィミーシィの影は、不思議な事に月光の下で、確かに渋沢のそれよりも、黒く底深く見えるのだった。彼の背丈にはあまる外套は、床のあたりで影と癒合し、不破の躰そのものが闇から融けいでたようですらあった。あたかも千年前からこの場所の主だったように泰然としたその挙措に、渋沢はあらためて、かける言葉を呑んだ。 呑まざるを得なかった、と言った方がいい。 彼は背中に冷たい汗をかきながら、先刻ヴィラ・ド・エギーユの玄関口で三上にかけられた言葉を反芻しているところだった。 あの時三上は、不破には気をつけろと確かに言ったのだ。トレアドールは鋭い感性と予知の才を持つ事で知られた血族である。その時は気をつけると答え、事実それからも警戒だけは解かないつもりでいた。しかしその目が、結局のところ同情で曇っていたのだと言われれば、認めないわけにはいかないだろう。 先夜の墓場での、落魄のリア王めいた弱々しさが幻だったかのように、公子を相手にしている間の不破は、メトセラ一流の歳月に磨かれた如才のなさを発揮してみせたのだから。 謁見そのものは、きわめて短時間のうちに、平和裏に終了した。 現代のカマリリャにおける公子への拝謁は、たいてい簡単な自己紹介と血筋の披瀝、カマリリャと公子に敬意を払う事を明言する、という一連の手続きからなっている。武蔵森でも例に漏れず、家令である渋沢が全ての来訪者たちの答弁を帳面に記載して、公子の図書室に保存する事になっていた。 来訪者がヴェントルーやトレアドールといった、カマリリャを構成する氏族の血族ならば、この問答は事実上、形式だけのものであった。武蔵森は現在の倍以上の血族を擁しうる都市であったし、サバトとの諍いもまた、一世紀近く絶えて久しい。しかしいかに平穏とはいえ、ツィミーシィなどというとびきり変わりだねの客に対しては、公子の目もそれなりに厳しくはなろう。 実際渋沢が気にかけていたのがその事だった。お世辞にも寛容とは言い難い公子と、メトセラの矜持がぶつかって、口論にでもなっては目も当てられない。そうなる前に助け船を出すのが自らの役目、と断じていたが、蓋を開けてみれば、不破の物腰は想定外に慇懃であった。公子の椅子からできるかぎり下座に佇立して恭順の意をを示し、開口一番、自分は目下サバトと何の関わりもなく、貴下の都市との友好の限りにおいてカマリリャとトレメールの権威を全面的に支持するものであると表明したのである。 今になって、何と巧妙な自己紹介もあったものだ、と渋沢は内心舌を巻く思いがする。公子は作法を重んじる人物であるから、それなりに気をよくしたようだったが、これでは過去にサバトと関わりがなかったという証左にはならないし、友好の限りにおいてという言葉も引っかかりがあるものだ。気品はあるが善意のない、不破の無表情の下に一瞬、トレメール何するものぞという侮りが見えた気がした。胸の底がぞーっと重くなった。 不破はその後も、ビザンチン風の入り組んだ阿諛(あゆ)を交えて公子の問いによどみなく答え続け、きわめて短い時間内に公子の、都市のいずこなりと住まうがよいという言質を取りつけるのに成功した。しかしそうした宮廷仕込みの、ねじくれた弁論術に多少なりとも通じている渋沢の目には、不破が答えたくない質問に対しては巧妙に話を逸らし、論旨をすり替えている事は明らかだった。明らかではあったが、それを指摘する糸口ばかりは、どうしても見つけられなかったのである。メトセラの老獪さを痛感せざるを得なかった。 「…渋沢。どうしたのだ?」 少し苛だった風情の不破の声で、渋沢は我にかえる。 不破は腕組みした姿勢で渋沢の二、三メートル先に立ち、彼に冷たい注視を注いでいた。渋沢の足どりが重いのが気にかかったのだろう。歳経た血族ほど、ほんのちょっとした事にも疑念を抱くものである。渋沢は気弱な目で、ちらりと不破の顔を見返した。ちゃんと笑えているつもりだった。 「俺が不快か?」 だから、そう言われた時には心臓を鋭利な刃物でずぶりとやられたような、冷や水を浴びせられたような気分になったのだ。渋沢の片頬が、勝手にひきつれた。 「 「そうか?」 不破は厳めしい無表情のまま、無造作にこちらに近づいてきた。渋沢の背筋が何か金縛りめいたもので凍りついた。 不快 「俺の才覚だけでやった事だが、それほど不快だったか」 うっそりと、そう言ったのだ。渋沢は言葉に詰まった。不破の眸は静かだが、少し怒っているようだった。もの寂しげな風情でもあった。 「…どういう事かな」 「俺なりの処世術というものもある。トレメールに弱みを見せたくもない。だが公子のご機嫌をとるところまで、お前の世話にはなれない」 もうこれ以上世話になれないくらい渋沢に恩を受けているし、その事にはこの上なく感謝している。 続けてそうはっきりと、不破は言った。嘘はなさそうな口調だった。あるいは、だが、渋沢自身がそう信じたいだけなのかもしれないが。それでもよく考えてみれば、公子を煙に巻いている時ですら不破は、嘘はつかなかった。ただやわらかに、好まない真実をいくらか伏せただけだ。自分の記憶すら定かでなく、寄る辺もなしに、ただメトセラたる者の矜持だけは損なうまいと、肩肘張って振る舞った事を不快とするならば、それこそ酷というものではないか。渋沢の裡に苦い後悔が走った。 「…別に悪く思ったわけじゃないんだ。安心してくれ。ただ、そこまで遠慮はしなくていいんだよ」 「遠慮?」 「言っただろう、手伝える事はないかって。もう少し俺を頼ってくれても…」 不破の目が不意に冷厳に光って、渋沢は言葉の続きを呑みこんだ。 「別に遠慮しているわけではない。まだお前に対して警戒を解いていないというだけの話だ。お前が俺を警戒しているようにな。必要以上に借りはつくりたくない」 眩暈に似た冷たい感覚を覚えて、渋沢は一歩退いた。 言葉を選んだ様子ながらも、不破が吐いたのは鋭い警句である。その振る舞いは、意識して渋沢との間に距離を保とうとしているようにも見えた。 それはそうであろう、渋沢でさえ、先夜出会ったばかりの不破に、完全に気を許したわけではない。ましてやノアの洪水前の夜からその闇の生を繋ぐために、悽愴をきわめた死闘をかいくぐってきたのであろうメトセラが、さほど簡単に、人を心から信ずるわけもなかった。もしかすれば、誰一人。何かしら、自分と不破を隔てるひんやりとした水脈のようなものを、渋沢は虚空に感じた。二人は一見同じヴィラ・ド・エギーユの暗い廊下に立っていたけれど、実際は全然別の地平に立って、全く違った風にものを見ているのかもしれなかった。胸が冷たくなるような寂しさを、不意に渋沢は覚えた。 「…君はそれでいいのか」 次の言葉は、だから、ほとんど無意識だった。不破は一瞬怪訝な目をしたが、すぐに鼻白んだ風情に戻って彼を見た。 「藪から棒に、何だそれは。どういう意味だ」 「…いや、その間違えた。今のは無しだ」渋沢はあわてて手を振って打ち消した。君はそれでいいのか。寂しくはないのか。そういった浅はかな思いつきを、この往古から生きてきたメトセラの前で口走ったとしたら、それこそ軽蔑されるというものだろう。「いいんだ。いきなり信頼してもらおうなんて、恩着せがましさが過ぎたね。謝るよ」 「お前に謝られては、俺の立つ瀬がないが」 「いや、いい。聞いてくれ。俺は、でもできるなら君を信頼できるようになりたいし、君に信用してもらえるように努力したいよ。…いけないだろうか?」 愚にもつかない言い種だ。言ってしまってからそう思った。不破の顔に一瞬、怪訝な表情があらわれ、瞳孔の窄まった眸が丸くなった。彼はいかにも不思議そうな顔つきで、渋沢の眸を覗きこんだ。―――あの深く、無感動に全てを見透かしたような眸だ。渋沢はその鋭い針のような視線に、展翅された蝶の気分で、その場に立ち尽くした。この瞳の前では、嘘は意味をなさない。愚にもつかない言い種かもしれないが、だがしかし、あれは自分の偽らざるところだった。だから、疚しい事はなかった。 「…お前は」 ややして、不破はぽつりと言った。その顔から、胡乱さと氷のような厳しさは失せていた。「興味深いな」 「え?」 今度は渋沢の目が丸くなる。不破は淡々と続けた。 「非の打ち所のないヴェントルーと思ったが、少し違うようだ。人がよすぎる。面白い。お前のような血族には会った事がない…」そこで言葉を切って、「もっとも、ここに来て以来、珍しい血族には会いっぱなしなのだがな。優雅ならざるトレアドールに人懐っこいブルハー……」 「はは…」 渋沢は苦笑いを漏らしたが、同時に嬉しくもなった。不破はそれなりに、自分たちを好評価してくれていたのではないか。 「それじゃあ…」 「うむ、よいだろう。俺もお前と親しくなれるよう努めてみよう。それもまた考察に値する事だろうからな」 不破はきわめて淡泊にだが、そう言って今度は確かに微笑んだ。それは戦術的な鄭重さからではなく―――おそらくは―――心からの。不破は元来、何かしら人を不安におののかせる雰囲気を、黒雲のように身に纏いつけていたのだが、それもこの一瞬ばかりは吹き払われた。彼はゆったりとした挙止で、痩せた手をさし延べた。 「改めてよろしく、だな」 「…ああ」 この上なく優しい安堵を覚えて、渋沢がその手を取った。握手には少し強めに、握りかえした、その時。 「…手が早えーぞ、渋沢ー」 「なッ…」 指がこわばった。 渋沢の死んだ心臓が、一気に喉許まで迫り上がる。きょとんとした顔で、そんな彼の振る舞いを見つめている、不破の背後の曲がり角から、不粋な一声をかけたトレアドールがひょいと顔をのぞかせた。「やけに帰ってくるのが遅いと思ったら、なーにやってんだ、お前は」 渋沢の顔色が一瞬、七面鳥のようなめざましい変化を遂げたことは言うに難くない。言うまでもなくこのヴェントルーは、その手のジョークであげつらわれる事に慣れてもいなければ好んでもいなかった。 「ご、誤解だ三上! 俺がそんな事するわけないだろう? ほら不破くん、何か言ってやってくれ」 「うむ。こいつがな、もっと俺と親しくなりたいとか言って手を握ってきた」 「ほおおー?」 「それは全然フォローになってないぞ…」 一気に疲労して、渋沢は頭を抱える。ちょっとジョークが過ぎたものかと、三上が彼の横にまわって、その肩を軽く叩いた。「わかってますって、渋沢さんよ。お前にそんな甲斐性あったら、俺が秘蔵っ子のウィスキー下ろしてお祝いやらぁ。…よう不破、謁見はうまくいったのかよ」 「…む、万事滞りなく」 「そいつぁよかったじゃねえか」 「ああ、そうだな。では失礼する」 「待て待て待て……」 言い切るなり、本当に立ち去ろうとした不破を、慌てた三上が襟首掴んで引き戻した。不破は振り返って、わずらわしそうにちらりと三上を見た。「何だ」 「お前、どこに行く気だよ?」 「出口」 「んな事ぁわかってんだよお前、バカにしてんのか」 逐一癇にさわる不破の口調に、三上の声も喧嘩腰になる。渋沢は今日何度目かの偏頭痛を覚えた。結局こういう時に割って入るのは、彼の役目なのだ。 「まあ落ちつけ三上。…不破くん、でも君は行くところも特にないんだろう?もう少しここにいても別に…」 「行くところなら」 不破はそう言いかけてから、思い出したかのように、一枚のカードをさしだした。随分と古い、名刺のようだった。 「これは?」 「服の袖に入っていた」 要領を得ない返事に、渋沢は首を傾げる。手書きの名刺だった。そこには精緻な文字で、以下のような事が記してあった。 DAICHI FUWA OrsaillesStreet 1-23-1 Upper-SAKURA waterside Musasino-forestCity Massachusetts しばらくの間三人は、小さなその紙片をとっくりと眺めていた。 「…不破大地、マサチューセッツ州武蔵森市、桜上水区、オーゼイユ街一丁目23の1」 渋沢が声に出して、その四行あまりのアドレスを読み上げた。 「オーゼイユ街っつったら、桜上水で一番こっち寄りの通りだったよな」 「うん、古いお屋敷町だ。…不破くん、これは何だかわかるか?」 「わからん。俺の名刺と見るのが一般的なところだろうな。だが俺はそんな名刺を書いた覚えがないし、桜上水などという地名にも記憶がない。…まあ、とにかくそこに書かれた場所に行ってみようと思うのだ。何があるのかはわからんが、手がかりにはなろう?」 あいもかわらず超然とした風情で、不破は答えた。「誰かが、俺をそう導くべく、この名刺を持たせたのだろうからな」 「誰か?」 不穏な言葉に、渋沢がちょっと眉をひそめた。不破はこころもち厳かに頷いた。 「さよう、誰かだ。お前は俺を見つける前に、俺の墓を暴いていた連中がいたといったな。それが偶然だとでも思うのか。俺がこの場所に、この時代に目醒めた事、そこにお前たちが居合わせた事が偶然だとでも?―――俺は、そうは思わんな。誰かの意思がはたらいているのだ。俺も、お前たちもおよび知らぬところでな」 さすがに渋沢も、三上もぞっとして黙りこんだ。 不破の言葉はにわかには信じ難いものだったが、何とも気がかりな響きをもって、聞く者の心臓に忍び入った。その寒気に似た感覚は、拭っても拭い去る事ができなかった。“誰もが誰かを操り、そして誰かに操られている”という言葉は、血族社会で絶える事なく囁かれ続けてきた警句である。誰しも自分がただ謀略の裡にその生を与えられ、陰謀の駒としてはたらかされているとは信じない―――いや、信じたがらないものだ。だが実際は全てが―――大いなるジハドさえも―――たった一握りの太古の者たちのチェスボード上の争いに過ぎないと言う者すらある。最下級の血族でさえ、その闇の生を繋ぐために人間どもを操っている。況してや古の者たちをや、というわけだ。最も堕落し果てたラソンブラにすら、この胸の悪くなるような説話を好む者はいなかった。あまりに自虐的で、そして救いのない、だが笑い飛ばすには現実味のありすぎる話であったから―――。 「…よしんば、そうであったとして」ややして、ぽつりと渋沢が言った。「それでも君は行くわけだね?」 「興味深いからな」 自分の命運に関した事ながら淡々と、不破は言った。 まるで本の続きを気にするような風情だったが、どうして大真面目である事は、その怜悧な眸からうかがい知れた。 おそらく彼は、恬澹(てんたん)とした振る舞いの下で、鋭く思考の糸を張り巡らしているのだ。そうして危難に際しても、でき得るかぎり悪賢く、冷徹に、彼をとりまく宇宙のことわりを推し量ろうとしているに相違なかった。このような生き抜くための強かさを、渋沢はもはや奸智とはしなかった。かえって敬意を払うべき英邁さとさえ感ぜられた。 「同道するよ」 「いや、それには及ばない。お前は疲れているだろう。もう休んでくれ」 不破はやんわりと、だが断固として助力を退けた。艱難を独力で切り拓く事も、また彼の矜持のようだった。誰かの力を借りる事など思いにもよらないのかもしれない。 「ならせめてオーゼイユ街まで送らせよう。歩くには少し距離があるからね」 「言っとくが、俺はお断りだぜ。桜上水くんだりまで行く気がしねえ」 間髪入れず、三上がぴしゃりと言い放った。渋沢は苦笑いを浮かべる。 「わかってるさ。向こうの連中に迎えをよこしてもらうよ。…風祭あたり手が空いてるだろう」 「そうか。それで手間も省けたってもんだ」 三上は口の端でにやりと笑った。彼は大股に不破の前まで歩いていって、手に持っていた紙包みを無造作に押しつけた。 「桜上水まで行くんだろ? ちょっと水野ん家に寄ってくれたって構やしねえよな」 「何の事だ」 不破はそっけない表情のまま、手許の紙包みに目を落とす。渋沢がちらっと咎めるような視線を、不破の肩越しに三上に送った。 「何なんだ? それは」 「こいつを水野ん家まで届けてほしいんだよ。公子のご命令でさ。俺が思うにさっきの喧嘩の原因もそれなんじゃねえの? 俺は水野のツラなんて見たくねえし、この歳でお使いなんて柄でもねえんだがよ」 「それ、お前が言いつけられた事なんじゃないか」 「うるせえな。お前にゃ言ってねえ。ほら不破、俺にも恩あるだろ」 「お前にはないが、しかし公子に無いと言えば嘘になろうな。引き受けた」 不破は片眉を下げた皮肉っぽい表情で、もっともらしく頷いてみせた。三上は肩をすくめたが、今度は食ってかかりまではしなかった。彼はその姿勢のままで、くるりと背を向けて、エレヴェーターホールの暗がりの方向に歩いていった。 「いいのかい?」 渋沢がぼそっと囁いた。 「構わん。ついでだからな。その風祭とやらは、水野の居場所は知っているのだろうな」 「ああ、それは勿論。友達同士だったはずだ」 「気難しい奴か?」 「とんでもない。善人の典型と言おうか、君の言い方を借りるなら、それこそ非の打ち所のないヴェントルーとはほど遠いような奴さ。それに水野だって、そうややこしい質でもない。……そうか、さっき気が立った風だったのは、公子と喧嘩したからか」 「…まあ、いい」 不破はそこまで聞くと、外套の裾をひるがえし、エレヴェーターホールの方に足を早めた。この土地の煩瑣な人間関係などに、興味はないということか。渋沢は溜息をついたが、落胆はしなかった。懐に誘い入れるような危うさを見せたかと思えば、すげなくつきはなす冷たさが不破にはある。しかしそれも、人心を弄ぶ狡知からのみのものではないだろう。少なくともそう思うだけの自信とゆとりが、渋沢にはできていた。 「何をしているのだ、渋沢」 不破がふりかえりざま、渋沢を呼んだ。 「今行くよ」 渋沢は微笑んで、答えた。携帯電話を取り出し、プッシュする番号を頭の中で思い返しながら、不破の背を追いかけていった。 そしてつまるところ、うそとは何か? 仮装した真実にすぎないのだ。 |