樋嘴(ガーゴイル)はあいかわらずの不機嫌面だった。

 足早に歩きだした不破と、武蔵森の街路の上には、ニューイングランドの物憂い朝が重く低く垂れ込めている。
 曇った一日になりそうだった。
 雨は止んだが、目地のかぎりに、分厚い灰色の雲が陽光を遮っていた。五月の薫風と呼ぶには冷たすぎる風が吹いて、路肩の街路樹もどこか生気のない、くすんだ緑を見せている。暖かみは増しそうになかった。
 もっともそうでなければ不破も、日中の路地を歩いて無傷でなど、到底いられなかったろう。陽光は血族にとって、ほとんど致命的な効力を果たすのだ。彼は外套の襟を立て、スカーフを頭に巻きつけて、両手を懐に突っ込んでいたが、それでもなお絶えず頭痛や、肌を虫が這うような掻痒感に襲われていた。しかし考察すべき問題が色々とあったので、それらに気を取られていれば、陽光もさほど苦にはならなかった。



 渋沢と別れて、ヴィラ・ド・エギーユの玄関口を出てからこちら、彼は南に向かって歩きつつ、雨に滲むように灯の消えた街燈を数え続けていた。
 街燈の傘はアール・ヌーヴォ調の菫の花型である。石畳の道は広い歩道と、両脇の古色蒼然とした煉瓦造りの建物群を備えていて、どこかフランス植民地時代の名残りがあった。人通りは少なかった。車も多くはない。かなりの数のショーウィンドウが外から板を打ち付けられて埃をかぶっており、この都市の時計が、レーガン政治時代の経済的沈滞から先に進んでいない事がうかがい知れた。  要するに武蔵森は古都の観光地でもないが、没落の一途を辿る田舎町でもない、東海岸一帯にごまんとありそうな、地方の文教都市という位置付けで満足している街なのだった。都市の機能の生物的局面から見れば、すでに成長を止めた、死んで久しい地域なのだが、こうした時の止まった場所こそ、血族にはこの上なく住みよいのである。言うまでもなく不破も、この都市を気に入りつつあった。   唯一、気がかりがあるとすれば、住人の気質がどうにも馴染みのないものだという事くらいだった。

 謁見の直後、渋沢の態度がいきなり硬化した事には、実は相当気を揉んでいた。不破は無論、渋沢の人品を高く評価していたし、態度に出しこそしなかったが、好もしくも思っていた。とかく人との間に角を立てやすい彼ではあるが、だからこそ、渋沢とは懇意に遇し、また遇されたいと考えていたのだ。ところが理由もわからず、当の渋沢の振る舞いが、いやにぎこちなくなった。
 渋沢は、それは善人が身上のような奴だから、如才なく振る舞って、気づかれないでいるつもりだったのかも知れないが、腹のさぐり合いにかけては不破に一日の長がある。渋沢はこちらを警戒しているようだった。いや、警戒自体はお互いさまだが、悪く勘ぐられている感さえあった。それは不破にとっても腹立たしいし、誤解されたまま物別れするのも嫌な話だった。それこそ不義理というものではないか。彼は、だから、単刀直入に訊いてみる事にしたのだ。

「俺が不快か」と。

 結果として渋沢が大仰に驚き、あまつさえ「信頼」などという言葉を持ちだしてきたのには、かえって面食らった。鼻白んだ。が、面白くもあった。
 そんな言葉が血族、それもヴェントルーの口から飛びだしてくるとは、つゆとも思っていなかったのだ。生まれついての理屈屋で、理性崇拝的な価値観を持つ不破にとって「見ずして信ずる者は幸いなり」などという言葉はくそ食らえもいいところだったし   そもそも彼はキリストよりはるか昔から生きてきたのだ   そうでなくても苛酷な闇の生の中で、信頼などという概念は真っ先に殺ぎ落とされてゆくものだ。ましてや不破は、そうした人間性の柔らかな横腹とでも言うべき部分に、生来きわめて乏しかった。信頼という言葉に、彼が定義付けをなすとすれば、だから、それは必然的に他者性を帯びた概念となろう。信頼という言葉は理解し得る。その状態もまた然り。しかしその延長線上に自分を置くとなると、これは容易には想像し難かった。無論、想像し難いという事は、想像する甲斐があるという事でもあるのだが。街燈が十九本。二十本。二十一本。



 街路はそこで、唐突に終わっていた。不破は、ぐるりを切妻破風(きりづまはふ)で飾られたアパルトマンが並ぶ、パリの星の広場を模したような、八角形のロータリー広場に行き当たった。中心部にプレートが設えてあり、歳月と人々の靴底でだいぶ磨耗してはいたが、どうにか桜上水という文字が読みとれる。
 ここに風祭とやらが、迎えに出ているはずであった。だが一見して、ヴェントルー風の人影はない。不破は立ち止まって億劫そうに、ゆっくりと周囲を睥睨した。傲岸な仕草だった。こちらの人相風体は、渋沢を通して向こうに伝わっているはずだ。はたして、その辺りにたむろしていた、早朝の暇そうな群衆の中から、水色のウインドブレーカーを着た小柄な人影が、大急ぎで不破の方に向かってきた。

   あのう、不破さんですよね」

 物怖じしたような声である。不破は目を合わせもせず、わずかに頷いてよこした。
「そうだが?」
「僕、風祭です。渋沢さんから…」
「それはもう聞いている。世話になるぞ」
「車はあっちですから、どうぞ」
「助かるな」

 いかにも無造作にそう言い捨ててから、不破は初めて風祭を見た。
 見れば見るほど華奢な、仔鹿のような体躯の少年である。アイルランドの田舎っぽい英語を、丁寧に喋っていた。糊のきいた服装で、なるほど渋沢の言ったとおり、親しめる笑顔の持ち主だ。彼はその、不破とは対称的に黒く大きな瞳で、興味津々この賓客を見上げていた。
「下の名前は何という」
「将です。風祭将」
 言いながら彼は、広場の隅に停めてあった六十五年型ムスタングの後部座席に不破を招き入れた。シートは清潔だったが、車全体に古い書物の臭いがぷんとした。何よりありがたい事には、ガラスの全てに遮光処理がしてある。不破は背をこごめて乗りこんだ。

「…お前、アイルランド人か?」
「生まれは、そうですね。ベルファスト生まれです」
「じゃがいも飢饉の世代と見たが」
「……いえ、それは僕の祖父の時代ですよ。僕が小柄なのは生まれつきで……」

 風祭が一瞬口を閉ざしたので、彼が自身の体躯の貧弱さを気にかけているのは容易に知れた。会話の途切れ目に、年代物のエンジンが喘ぐがたがたという音が、車体全体を揺らしてやけに大きく響いた。

「悪い事を訊いたか」
 車がどうにか、桜上水の方角にすべりだすと、不破はシートに身をもたせてぽつりと言った。バックミラーに映った風祭の目許が、ほころぶように笑ったのが見えた。
「気にしないで下さい。それが僕の特徴みたいなもんですし」
「そうか」
「ええ。そりゃもう、シゲさんなんて   シゲさんっていうのも血族なんですけど   僕の事ポチって呼ぶくらいですから」
「それはひどいな」
「ははは、ひどいと言っちゃひどいですよねー」

 微笑みながら、風祭はシガレットケースを出して礼儀正しく薦めたが、不破は片手を振って辞退した。ほとんど全てのツィミーシィの骨の髄にまで染みついているトルコ人嫌いの影響で、不破は煙草を嗜まない。風祭も人に薦めるだけで、自分では吸わないようだ。指先に脂(やに)の染みがうかがえなかった。

「申し遅れたが、俺の下の名前は大地だ。不破大地。特徴を、と言うならば、さしずめこの目つきの悪さという事になろうな」
 いささか興の乗った口調で、不破は言った。風祭がちょっと怪訝な顔で、彼をふりかえった。
「目つき、悪いですか? そうは思わないけどな」
「よく言われる」
「綺麗ですよ」
「誉めても何も出んぞ」

 不破はぶっきらぼうに言い捨てたが、お世辞でないのはわかっているから、別段悪い気はしなかった。風祭もまた、裏表のない、非常な好人物のようだった。本来なら寝ているであろう時間に駆り出されたのに嫌な顔ひとつせず、はじめて会うこの寄る辺のない異邦人に、心から親しみ、仲良くなろうと努めている風情が感ぜられた。渋沢といい風祭といい、この地方のヴェントルーは極めつけのお人好しばかりなのか、実際はもう大分前から、彼らが害のない人種なのだという事を確信していたにも関わらず、不破は却って神経が安まらないくらいであった。

「綺麗というなら、あれだ。桐原公子の子息、水野とかいったな? あいつこそ申し分のない容貌ではないか。   そうだ、奴の家に寄らねばならないのだった」
「ああ、水野君はすごく綺麗ですよね。…え、何の用で?」
「公子からの届け物を預かっていてな。人使いの荒い連中めが」
 ぼやいてみせながらも不破はどこか、いつにない楽しさを感じていた。「オーゼイユ街に行く前に、水野の家まで連れていってくれるか」 「いいですよ」
「ありがとう。   それともうひとつ」
 不破は満足げにうなずいた。

「何?」
「俺の前でかしこまる必要はない。俺もここでは一介の血族に過ぎんのだからな」

 ちょうどその時難しい十字路にさしかかったもので、風祭はふりむかなかったが、空気で笑ったのはわかった。

「…うん、じゃあそうさせてもらう。不破……君でいい?」
「うむ。それが一番おさまりがよいか」

 しかつめらしくそう言ってから、不破はちょっと小首を傾げた。「そう言えば渋沢も、俺の事はそんな風に呼んだな」
「渋沢さんは、何て言うかね、世話やき気質な人でしょ」
「そのようだ」
「いい人だよ」
「それもわかる」



 不破は目を閉じて肘をつき、両手を額の前で組み合わせ、大きく息をついた。
 いい人、それはそうだとも。渋沢は掛け値なしの善人だ。だが何か、自分とは決定的な何かが   あるいはそれは、人間たちが魂とか心と呼ぶ物のありようなのかもしれない   そぐわずに、息が詰まるような焦燥感を感ずる事も確かだった。あの何くれない優しさも、目醒めてすぐの、右も左もわからず弱気になっているうちは頼もしかったが、公子と話していて次第に、本来のふてぶてしい自分を取り戻してくるとうとましくもなった。信頼。はてさて、そんな事が本当にできるのか。茫洋(ぼうよう)としているうちに、風祭のムスタングは賑々(にぎにぎ)しい通りを二すじ横切って、再び夜の海のように静かな、とりすました風情の一画に入ってきている。石畳は褐色の玉砂利にとって代わられ、十九世紀風のアーク燈の向こうに黒い木立と堅牢な館の群が見えた。その中では比較的新しめの、青御影石の門柱を備えた屋敷の前に、車は止まった。見上げれば青銅のネームプレートに、水野という名が刻んであった。

「ここだよ」
「む、」

 不破は軽く頷いたのみで、風祭が客席ドアを開けるまで待っていた。冷たい外気の中に鼻先を出してから、
「ああ、だめだなこういうのは。一介の血族と言うなら、ドアくらい自分で開けるべきだったな。そうだろう?」
 とうそぶく。

「すぐには無理だよ」風祭は苦笑した。「気にしてないし。それに不破くん、ずっと人に命令した事しかないでしょ?」

「…そうだな」
 不破は皮肉っぽく肩をすくめた。可愛らしげな顔をして、風祭もなかなかどうして、結構辛辣な事を言ってくれる。心にもない事は言わない主義なのかもしれない。ヴェントルーらしくはないが、甘い事を言われるよりは、よほど気が休まった。「お前はなかなか炯眼だな?」
「当てずっぽうだよ」
 門柱の脇のL字型のスペースに車を滑り込まそうと格闘しながら、気に障ったならごめんね、と風祭は言い足した。年代物の老朽車はがりがりと玉砂利を噛んで軋み、蒼い排気をたっぷり吐いて停止した。

「オーゼイユ街は、ここからだと筋一本向こうだね。ほら、そこの角を曲がった」
 汗を拭く動作ひとつして、風祭は指さした。不破は伸び上がってその方角を見る。

「なら、ここからは送ってもらうには及ばんな」
 無感動にそう言って、館の方に歩みを進めた。小径には、歳月を経て気味悪いほど巨大になったアメリカカラマツが、のたうつ灰色の影を落としていた。正午を前に、日は高く、恵みの雲もわずかに途切れだした様子である。
 その光景を見ているうち、しかし裏腹に不破の心には、先の見えぬ不安が垂れ込めだした。



   渋沢は信頼できるだろうか?」


 意図せず、彼はそう呟いていた。

 誰に向けた言葉でもなかった。自分自身にさえも。多くの   それを苦にするにせよしないにせよ   孤独な人々に特有の癖で、不破にも独り言の習慣があった。少し足を早めて追いついた風祭が、ちらと彼の目を覗きこんだ。

「…それは、渋沢さんが信頼に値する人物か否かという事? それとも不破くんが渋沢さんを信頼できるかって事かな? 前者なら僕は躊躇(ためら)いなくイエスと言えるよ。渋沢さんは信頼に値する人物だ。   でもそれと、不破くんが渋沢さんを信頼しきれるかって事とは全然別問題だね」

 不破ははじめて驚いたような目で、この齢若い血族を顧みた。

 風祭は彼一流の物静かな、慎ましい笑みを浮かべていた。
 おそらくは何の衒いもなく、言った事に相違なかった。それが何かしら、このメトセラの石のように冷たい心臓を一瞬、わずかにだが揺さぶったとしたら、それは彼の言葉がまさに、正鵠を射たものだったからだろう。不破ははっきりとたじろいだ。しかしキニク派の哲学者のような、その無表情が崩される事はついぞなかった。翳りの陽の下に、不破はしばし目を伏せた。そしてゆっくりと、



「…それを今から考えてみるのも、悪くはないと、思うのだ」



 答えた。



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